俳句と油絵のハーモニー
ここは、私、村上哲史の油絵作品の展示室です。
私の油絵作品の特徴は、タイトルに俳句を使っていることです。「俳画」と言えば、水墨あるいは淡彩画の上に俳句を書くのが一般的ですが、それからヒントを得て、抽象的な俳句に抽象的な油絵作品を合わせるとどうなるかという実験をしてみました。
すると、俳句が作り出す世界と油絵の世界が共鳴して、よりストレートに思いが伝わるような気がします。みなさんはいかがでしょうか。
ボクには土手で遊んだ記憶がない。町の中で生まれ、町の中で育ったというのも理由ではあろうが、たとえ近くにあろうとも、この体では一人で遊びに行くことなどできはしなかった。
真っ赤に染まった秋の夕暮れ。曼珠沙華がこの世のすべてを赤くする。そんな中、遊びたりずに棒きれを振り回しながら帰って行く自分をイメージしてみた。 |
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十年ほど前、ロシアのタンカー「ナホトカ号」が日本海で破損し、大量の重油と船首部分が福井県の海岸に漂着した。 このとき全国から大勢のボランティアが結集し、回収作業にあたっているとの報道が連日流れていた。
福井県と言えば水仙の群生で有名。現場を見下ろす高台に黄水仙が咲いていたかどうかは定かではないが、黄水仙の強くたくましいイメージと、この事件以来活発化していく市民活動とが重なって、この句かでき、この絵になった。
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徳島市両国橋2丁目22。この絵の右側に半分だけ見えるのがボクの生家である。食堂を営んでいたのでボクはほとんど構ってもらえず、毎日何千台もの車が行き来し、排気ガスで街路樹がすぐに枯れてしまうような店先で、よく日向ぼっこをしていた。
この句は、そんな幼少時代の思い出とはまったく関係のないところで出来上がった句なのだが、この句を絵にしようとしたらなぜかこの絵になってしまった。レモンの風などまったく吹いていなかったはずなのに。
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新町川沿いもボクにとって庭のようなものであった。買い出しに行く母に連れられて、街の景色を見て歩くのがとても好きだった。ただ、その頃の新町川はまさにドブ川であった。
それから十数年して水際公園ができた。公園らしく人もたくさん集まり、新町川も年々きれいになっていった。ここに行くと心が弾むような爽やかな気分になる。
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徳島と言えば阿波踊りである。しかも生家の前には演舞場があり、お盆の4日間は「よしこの」のリズムが鳴りやまなかった。
店先ではジュースを売っていた。接客は主に兄達が行なう。ボクは商品ごとの売上本数をカウントしたり、次に補充すべきのもを指示したり・・・、兄達が忙しくしている時には接客もした。
客にとっては、ボクの手が不自由であろうとなかろうと、知ったことではない。「早く飲みたい」その一心で手を伸ばしてくるのだ。だからボクも震える手を必死に伸ばして代金を受け取ろうとする。すると、いつもならなかなか掴めないコインがさっと掴めたりするから不思議だ。時には「早ようせーだー」と怒られたこともあったが、それさえボクは嬉しかった。「こんなボクでも人の役に立つことが出来る」そう思うだけで、ものすごく嬉しかった。 |
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ボクが俳句を作るとき、目の前にあるものを見て作ることは少ない。テレビやラジオから流れるワンフレーズや雑誌などで目にとまった言葉をメモしておいて歳時記とにらめっこしながら空想の世界を作り上げていくという手法をとる。
この句も始めに「馬鹿正直」という言葉があり、「梅真白」という歳時記の中の言葉とくっつけたもの。次にインターネットで白梅の写真を探し、背景はイメージに合うように作り替える。空気感のあるいい絵に仕上がった。 |
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俳句をタイトルにする以前、このような波の絵ばかり描いていたことがある。波や岩には決まった形がなく、自由に描けたからである。
この作品はそんな波シリーズの最後の作品で、より形が曖昧になり、抽象的になりつつあるのが分かる。また、描き始めてから一週間前後で一気に仕上げてしまう描き方の走りでもあり、自分で気に入っている作品の一枚でもある。 |
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