光の向こうに見えるもの
ここは、関政明さんの油絵作品の展示室です。
関政明さんの油絵作品の特徴の1つに「道」の作品が多いことが挙げられます。また、道以外の作品であっても、「光」、「水」、「空気」といった形のないものが見事に描かれています。
「あの道の向こうに何があるのか」、「光の向こうに何があるのか」。あなたもきっと絵の中に入り、それを確かめたくなるでしょう。
僕は風景を割合具象的に描く方だと思う。しかし、物の色や形を具象的に描きたいと思っているのではない。色や形を具象的に描くことで、その風景を包む大気や、情感のようなものを描きたいと思っているのだ。
題材は道が七〜八割を占める。それに雨や霧、靄、水などが加わる。しっとりとした、日本的な湿潤な空気感が自分の性格に合っているのだろう。実景に取材して描くことがほとんどだが、描く絵は僕が生きてゆく明日への道でもある。どの絵もたいがいは行く手が明るくなっている。自分の明日も明るいものであって欲しいという、無意識の願いが出ているのかも知れない。 |
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僕の今は、麻痺重き身の療養生活。もう三十数年にもなる。体力もなく、体中に常に痛みがあり、その痛みの上に更に激しい痛みが走り、安眠もできない。一般的にはかなり厳しい状況と言えるだろう。そんなこともあって、自分の描く絵の世界まで暗かったり、やりきれないものにはしたくない。明るく穏やかな、ホッとするようなものでありたいと思っている。
この絵も描いた景に僕の思いを重ねている。表面的には樹齢数百年の巨木や、立ちこめる朝靄に日が射し始めたところだが、主題は明るくて清々しい、穏やかな情感を描いたつもりだ。そして、そんな情感のようなものは、取りも直さず僕の生活もまた、そんなふうに穏やかなものであって欲しいとの思いがこもっている。 |
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ずっと昔からある祈りの道。どれくらいの人がこの石段を踏みしめて行ったことだろう。それぞれの人の、様々な思いが染み込んだ、長い長い歳月を経てきた道…。その歳月の上に、現在(いま)の日差しが穏やかに差し込んでいる。そんな石段の道を、僕も楽しみつつ、苦しみつつ、踏みしめながら描いた気がする。
僕の絵は絵画的にはちっとも面白くない絵かも知れないが、こんなふうな、しみじみとした風景画があってもいいのではないかと思っている。 |
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美郷から神山に抜ける峠近くの道である。下はぽかぽか陽気で雪があるとは全く思わなかった。それが、登るに連れて少しずつ出て来た雪は次第に多くなり、峠近くで車はついに立ち往生してしまった。車椅子の僕にとっては、こんな雪景色は取材に行きたくても行けないと思い、写真を一杯撮ってきたという訳である。
雪景色の絵というのはややもすると寒々としたものになりやすい。そこで、明るく暖かみのある雪景色にしたいと思い、影に薄いバイオレットを使い、日差しを意識的に強く描いてみた。 |
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僕の原風景とも言える景色である。僕は、山の中の農家に生まれて育ったから、子供のころは田んぼでよく遊んだ。蓮華田だったり、刈田だったり、冬田や春田だったり…。
この絵は雨の後の水が溜まった冬の刈田。溜まった水が夕陽に染まっている。僕にしたら珍しく実景のない、懐かしい故郷の冬田のイメージを膨らましながら描いたものである。 |
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だいたいは暗くならないように、ホッとするような画面にしたいと思いつつ描いているが、ときおり強く、激しく、厳しい絵も描いてみたいと思うことがある。この絵は、そのような思いの時に描いた絵である。
時雨というのは晩秋から冬にかけて降る雨。その雨に濡れた工事現場の地面は大型重機の通った深い轍で泥濘になっている。キャタビラの跡にしゃがみ込むような低いアングルで描いてみた。 |
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この絵も《時雨るる》と同じ系列の絵になる。僕の描きたい、明るくて光のある、穏やか絵とは対局にある絵かも知れない。しかし、野の中の一本の道を描き、雨や水、湿った空気、風景が持っている情感のようなものを描いたということでは、従来の僕の絵と全く同じである。
明るくて穏やかな絵が僕の明日への願いとすれば、『時雨るる』やこの絵は、現在の僕の心境が無意識のうちに反映されてしまったものかも知れない。 |
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